昭和41年06月13日 13日会



 最近の、椛目の信心の傾向というものが、どう言う様な方へ焦点を神様が置いておられるかと、言う様な事を、今朝のご理解に、まぁ頂きましたですね。皆さんどう言う風に思われる、最近の椛目の信心の傾向が、どういう野老に足並みを、行かなくてはいけないかという事。本当にそういう事をひしひしとその心に、この体に感じることなんですけれども。天地の親神様が金光大神を通して私共に切実にいよいよ神の願いを聞いてくれ、分かってくれ、そんな声を聞くような感じが致しますですね。
 ならその神の思いをと言う様な事を、神の願い、神の願いを椛目の信者氏子一人一人の上に呼びかけておられる。ね。そんな感じがもうひしひしと、お互いの身辺にですね、心掛けの上ではない、それを感じます。本気で一つお互いが、神様の願いを願いとして現せれるだけのおかげを頂かなければ、神様が言うて下さる事が分からん。 例えて具体的にいうならば、椛目の13日会の発足した事が、御本部の月参りが出来なくなったと言うことであった。
 その時に何人かの有志の人たちが、お参りが出来ないなら、そのお参りの旅費を積み立てていこうではないかというのが、十三日会のそもそもの始まりであった。当時は二千三百円くらいの旅費であった。ですからまぁ二千円、これは毎月お月参りをさせて頂く気持ちで、二千円づつ積み立てようじゃないか、と言う様なのが千円になり、ね、言わばまたは出来なくなりしておると言った様な、神の声を声として聞きよらん証拠。聞こえんようになってきよる証拠。
 今度の月参りなんか、少なくとも毎年椛目から三十名はお参りしとる。今度若先生が一人で代表でお参りしましたけれども、旅費だけでも、汽車賃だけいくらだったかな。三千五百円くらいになっておる。その位になっておる。ね。ですから本当にどうでもこうでもお月参りをせんならん、さぁ月参り、先生がお参りになる、十三日の日に例えばお参りになると、どうでもお繰り合わせを頂いて、おかなければならんという願いがあったから、やっぱりお繰り合わせを頂きよった。
 ところがお参りをしなくなったら、そのおかげを頂かなければその出来ませんものね。そうでしょうが。例えば三千円その積み立てでもです、なら現在、現在のような当たり前のようになってしもうておる。御本部にお参りをしないよう事が、当たり前のようになってしもうておるから、おかげも参らんですむようなようにしか、おかげを頂いておらんのだ。だから出来る筈がない。ね。月参りをさせて頂くものだと、そのお繰り合わせを願わなければですそれが出てこないのだ。
 たった一人でもいいけん、私はそれが分かる人がおらんだろうかと思うくらいです。本当に。これは私の信心の流儀なのですから。そういう私共そこで、もし徳を受けたというなら徳を受けてきておるです。そこんところを、私は本当にないがしろにしなかったです。ね。そういうところが、私は本当に緻密だったです。ね。お参りせんごつなったらお参りせんごとなっただけの事。これで、おかげの頂けれるはずがない。御造営の方におかげを頂きよる。その御造営の方すら出来んごとなるじゃない。
 願いがその位のものだもん。私共体はここにおっても、心は毎月御本部に月参りさせて頂きよると、言う様なものでなからなければ出来ん。ね。それを形の上に表していくと、そういう事になるのだ。始めの間はそうだったのが、段々いわば影が薄くなっていきよると言う様な、反対の現象になっておるという事。今朝からご理解を頂いた後に、熊谷さんが御心眼を頂いておられた。丁度私の前に三人の男の方達が誰か分からん。それに誰かは分からんけれども、お神酒を頂けとこう言うておられる。
 銘々に杯を持っておられるけれども、一人の人はその杯をこげなものはいらんというてから、ポーンと投げた。一人の人は持ってござるけれども、半分割れたごたる杯で、はぁあげなもん飲まれるじゃろうかと。次の人もやっぱりそうだ。それでもやっぱりお神酒だけはどくどくとこう誰かが、誰かが注ぎよるけれどもです、あげな半分杯でお神酒が頂かれるじゃろうかと、言う所で心眼から覚めたというお届けであった。今朝のご理解でしょうなと私は言うた。
 今朝の御理解は椛目のではです、本当に例えば朝のご理解を頂く前にまず、夕べのご理解を頂かなければ、本当の事は分からんと言う位に、一つの継がりをもっておるのだと。もう先生の仰る事は決まっておると言うてです、椛目のご理解がさっきのご理解ではないけれども、ね、私は十三日会のお参りの前にです、十三日会だから、十三日の十三時からというような積りで、十三時になったけれども、十三時が三時になってしもうた。十の字がなくなってしもうた。
 せめて三時からくらいは、やはり時間励行でと言う様な事に成って来たのだけれど、ですからこれはもう、皆さんが集まる前にいうなら、時間励行で参って来ておる人もあるが、その人のためにご理解は先にしようと。もう椛目でもご理解はあんまりもう魅力じゃない。どうでもよいごとなっとる。だから早う来た人達だけにご理解させて頂くようにさせて頂こうかというて、私はその御祈念前に私は今、毎時間その時の実感しておった事を皆さんに聞いて貰いよった。ね。
 小倉の富永さんが、毎日電話をかけられる。別に願いというものはないのだけれども、先生が電話口に出られると、もう電話は声を聞いただけで、ちゃんとする、おかげを頂くとこう言う訳である。それがもうこう言うところではない。御理解でも、もうピンとこんようになってるおる様なところが私共ありはせんだろうか。それこそさっきの熊谷さんじゃないけれども、杯をポーンともう、そげなお神酒やらいらん、とこう良いよるようなもんじゃなかろうか。
 よし受けなければならんと受けておっても、杯の半分割れたようなもので、お神酒はどくどく出よるけれども、(?)はぁあれでお神酒が頂かれるじゃろうかと、言う様な状態ではなかろうか。熊谷さんが申しました。そこですもんね。あの天神記というお芝居がありますよね。菅原伝授手習い鏡というやつ。あのところにあの、かんしゅうさいというあの、天神様のいわば、菅原道真の小さい子供があの手習いに来ておる、(?)いうところがございます。ね。
 みんなしっかり勉強せろと。ね。一日に一字づつ本当に覚えていけば、一年経てば三百六十五字を覚えられるぞという、台詞がございます。ね。この手習いの人達にです、しっかり勉強せよと、一年には三百六十五字という字が覚えられるのぞと。ただ通うてくるだけじゃいかんと、説教しておるわけです。小さい子供が子供達に。久保山さんに私は申しました。本当にこうやって、皆さん毎日椛目に、信心の稽古をさせて頂いておるから、今日の御理解の頂きところはそこだった。
 始めて頂いたご理解はあそこ。先生は今日はあそこを分かれと、言いよなさる所をです一つずつで、もし頂いていったらそれこそ、一年の間には三百六十五という新しい新知識が、身について来なければならない筈なんです信心は。ね。それにいわばおかげはもう何年前いや何年前よりも、足並みが崩れておる様な事はないだろうか。割れた杯を持っておる様な事はなかろうか。いやそげなもんはいらん。御理解やら信心やらどうでもよか。おかげさえ頂けばよかと、杯をぽんと投げ出しておる様な事はなかろうか。
 私今日は熊谷さんが御神願を頂いた、というその中からこんな風な事を感じる。だからですね私は言うのです、毎月あなた方ご本部参拝をしよったじゃんの。だからそれだけころっとお供えが出来なければどうするの。神様の願いに応えるちうごたる応える事ができんじゃないそげなこっちゃというのじゃないです。本当にご本部の月参りをさせて頂きよったと思うたら、あん時の2日間という時間だってお金だって、捻出ができよったじゃないか。お繰り合わせを頂きよったじゃないか。そういう気迫がいるんだと。
 そういう願いがです、持たなければいけないんだと。さぁ十三日会が近付いてきよるが、いやご本部参拝が近付いてきよるが時間の具合はどうか。ね。金銭の方のお繰り合わせはどうかと、思うて時間の事も金銭の事も、お繰り合わせを願わせて頂くくらいなです、いわゆる生き生きとしたものが、欠けていきよるんじゃなかろうか。最近は椛目のいわばそれこそ神様がです、言うて聴かせても分からんから身を持って、形を持ってひしひしとこれに感じなければおられないような事柄を持ってです。
 それこそ、秋永先生が頂いておられますようにです、椛目の合楽の、御広前に三つの雷が、一遍にその落雷したと、言う様な事柄を持ってです、ね、神の願いを聞いてくれよという働きをです、私共本気で聴かせて頂く気にならなければ、十三日会の意義すらも、段々なくなってくると、言う風に思うのです。どうぞそこにもう一つです、言わば私共がです、本気で一日に一言ずつでも、覚えていこうという、意欲を喪失していきよるような事はなかろうか。ね。
 椛目の信心が高尚になって、そげん毎日頂かんでんと、言った様な事になっていきよりゃせんだろうか。杯は向こうにぽんと、押しやっておるような事はないだろうかと、銘々に一つ思うてみて、おかげを受けなければならん。遠く離れておれば電話で聞く、ただ御理解ではない、人からの声だけでもちゃんとするとこういうのだけれども、あんまり浸っておると今朝の御理解のように、段々分からん。「はな」「はと」と。ね。
 「まめ」「ます」と私どん小学校の一年生の国語の一番始めに習う事であった。一字づつ教えようとする働き。「は、な」「は、と」「ま、す」「ま、め」一字づつ覚えていきゃいいんだと言う様な仕組みなんだ。私は果してその一字づつ、半字づつだって覚えていきよるだろうか。自分のものにしていきよるなら、もっとなんとかさわった信心が生まれて来なければならんという風に思うのです。
   どうぞ。